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文人画とは何か?

輝野 洪瑞

 文人画は、紀元11世紀、宋代以降の中国において誕生した、文人が余技として描く絵画に始まった。それは宮廷や権力者のために絵を描く職業画家と異なり、書・詩・画が一致する画風形式をめざし、老荘思想にもとづく俗世からの自由を理想とする。のち、明代の文人画家で文人画論を論じた董其昌は、技巧に走る職業画家の絵画よりも、教養を積んだ文人画家が描いた絵画の方が格調が高いと述べた。
 水墨画と呼ばれる水墨による絵画表現は、文人画家のめざす表現に合致したものとして、彼らによって磨かれてきた。
 文人とは科挙の合格者を指し、彼らは官職に就いて赴任先の地方の名士、画家、詩人などの間で集まったり絵を贈りあったりしてサロンを形成した。
 また文人画家は必ずしも官職に就く者だけに限らない。宋代の蘇軾のように失脚や左遷によって中央を追われた官僚が絵を売って食いつないだり、王朝交代期に新王朝への忠誠を拒否した前王朝の側近らが、遺民画家といって、地方で自給自足の生活をしながら絵を売って小遣い稼ぎをしたりしていた。あるいは明代の沈周のように、科挙を受験しなかった文人画家すらいる。つまり、文人画とは、職業画家の絵画に対する趣味で描いた絵画ということよりも、文人精神が体現されている絵画である、といった方が正確である。
 日本では室町時代には中国より文人画は伝わっていたが、当時は長谷川等伯や狩野永徳らの大和絵に取り込まれる形で受容された。本格的には江戸時代に「南画」として広まって行った。祇園南海、池大雅、浦上玉堂、谷文晁、渡辺華山らが代表的である。だが明治以降、質の低い南画が乱造されていたこともあり、フェノロサや岡倉天心は文人画を排除した。それ以降、芸大・美大を中心とする美術教育及びその出身者らで構成される美術界から、南画は在野・傍流に追いやられたばかりか、あたかも存在しないがごとく抹消された。
 だが近代以降も富岡鉄斎、小川芋銭、小川千甕(せんよう)、また洋画家の岸田劉生や藤田嗣治も南画風の作品を遺している。とくに藤田嗣治がエコール・ド・パリの画家として認められるようになった、「乳白色の美」で裸婦や猫の絵画において、墨を用いた輪郭線を「無念無想」に描くと述べている。これは南画の描画法である。
 さきに触れた董其昌は、文人画家のあるべき姿について、「万巻の書を読み万里の路を行けば自ずと胸中に自然が映し出ようになる」と述べた。日本でも、江戸時代の浦上玉堂は全国各地を放浪し、近代日本の富岡鉄斎が座右の銘としていた言葉である。

 私は絵画を描いて行く中で、文人画と出会い、水墨表現を学ぶようになった。
 現代美術なるものが先細りして終焉し、文系教養の崩壊、日本の美術大学を中心とする美術教育システムの問題という暗澹たる状況の中で、私は文人画の復権こそが必要であると考えている。

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